トマトは組織からできていて、
組織は個(細胞)から構成されている。
トマトは冷蔵庫の中にあるにおいてはトマトであり、
トマトは自分を「トマト」と呼ぶことを知らないかもしれない。
トマトは家において野菜であり、
国においては産地、宇宙においては存在。
メッシがいくら凄くても、
アルゼンチンとしては優勝できなかった。
個性は全体を感染させるか、
全体に感染させられないと組織としての結果が得難い。
コピーライティングは孤独な作業であり、
街を歩き、様々なものに触れてセンスを磨き、
それを受け取った先に拓かれる。
という意味ではチームタスクと言えるかもしれない。
それは自身のアタマを監督と見なした場合に依る。
どうやら「コトバ」にヒントがありそうだ。
ラベル付けにヒントがありそうだ。
中動態というものにも解決の糸口があるかもしれない。
それぞれのつながりは、
商業コマーシャルなら街の中に落ちているし、
先端科学技術の分野では我々の内側や目に見えないところに、
真理が落ちているの可能性がある。
そこに存在するメモリ。
答えははじめから在り、それを見つけているだけなのか。
「それとも考えている」は認められるのか。
気づくということはどういうことなのか。
気付けるということはどういうことか。
ティールやホラクラシーの本当の意味は。
現代はVUCAと言えど、原始時代は皆がVUCAだったはず。
ということは、
封建的なモデルがリスクであるということだけが決定している。
その組織にはびこる封建的な意識や階層・仕組みを取り払う必要が。
しかし、皆を納得させる手段が必要になる。
それが心地よかった人もいるし、そうではなかった人もいる。
「自己決定」「自主経営」
それぞれ「個」から「全体」を見る、
階層がフラットになったとき、全体が個集団であることを身近に感じる
封建的なモデルの中では、部門という箱の中に個を格納できた。
いまは部門という役割ラベルを持った個が、複数のそれを担うことが求められている。
次に来るのは上位階層からのプレッシャーではない。
自分がその役割に求める価値観。
一個がまずあり、
半分に切れば双つであり、
どこに居るかによって美味しさや使われ途も変わってくる。
メロンには成れないが、
メロンよりも美味しいと言ってもらえる可能性はある。
チームラボが大きなプロジェクトの報酬を皆で均等に山分けした。
面白い。
大きくそれに貢献した人も、できなかった人もそこはみな同じなのだと。
個がフラットな「階層」で働く組織では、大きな競争意識が生まれそうなものであるが、それを競わずにただひたすらに問題解決に集中が向くというのは気持ちの問題なのかもしれない。
憲法や、コンセプト、クレドといったものに支えられて。
そして、それを常に正しく捉えられるように、
個は自らの組織を盤石に整えている必要があるように思う。
マインドの0ポイントが次の時代の生産性の出発点となる。
その「0」の磨き方(日々、常に乱れていく。0の基準が変わる)、調整方法を共有することが、組織のブレークスルーのヒントとなる。
毎朝の組織の0と個の0を整えていく仕事。
こちらの朝とあちらの夜をも合わせながら。